川との戦い
関東平野は、大部分が未開の不毛の土地と言われてきました。それは、東は霞ヶ浦一体の湖沼地帯に、南は東京湾へと流れ込んでいる、鬼怒川・小貝川・渡良瀬川・利根川・荒川などが、毎年のように洪水を起こし、流れを変え、沼や沢が至る所に出来ていたからです。
そのため、豊臣秀吉の全国統一に伴って、徳川家の江戸転封の噂が出ると、家臣たちは反対したと言われます。
しかし、信任厚い伊奈備前守忠次の推進によって、家康は江戸への入府を決断したと伝えられています。
治水に長けた伊奈忠次は、その子の代に亘る大事業を行い、関東の水害をなくし、新田開発により10万石の大増産に成功。これにより、定住者が増えていきました。
江戸幕府下での千住宿の発展
1590年 北条氏の滅亡により、豊臣秀吉の命で、足立区一帯を徳川家康が直接支配
1594年 初代関東郡代伊奈忠次、千住大橋の架橋を開始
この大橋を起点として、奥州街道は江戸五街道の一つとして重要な交通路となる
千住宿は人馬の継場村として発展
1598年
1617年 同じく石出掃部亮吉胤が掃部新田を開く
1625年 駅制の改正により、日光道中初宿として定められる
1635年 参勤交代の制強化により、宿場町としてめざましい発展を遂げる
1689年 松尾芭蕉が千住より奥の細道へ
1716年 千住初の寺子屋が開かれる
1735年 毎朝市が立てられ、大いに賑わうようになる
1870年 千住宿の駅場廃止
1871年 東京府豊島郡千住駅南組 東京府足立郡千住駅北組、同中組となる
